三段論法による推認

 こういう感じで、法規を事実関係に適用し結論を導くやり方です。

このような思考プロセスを経て、あらゆる事件に対し法律が適用されて判決が導かれるのですね。

 

というのを考えていて、「三段落ちの文化」が根付いている大阪人のことをあらためて素晴らしいと認識するに至りました。

 

 例えば、就職試験におけるグループ面接。面接官が、数人いる受験生に対してランダムに質問をぶつけてくるとします。そこで最後に指名された場合。多くの大阪人は(うまくオチをつくらなければ)という根拠のない正義感が芽生えてしまうのです。ふつうに答えればいいものを、なぜか大変な使命を授かった錯覚に陥ってしまうのです。いちばんわかりやすいシーンとしては、3人いる場合。2人目までは普通でいい。でも、3人目は「トリ」にあたるわけですから、ふつうの思考回路ではいけないのです。うまく場を転換させなければ、舞台は「バラし」を迎えられないのです。

 

 わたしも、別にお笑いを目指していたわけではないのですが、学生時代の就職面接の際、ある企業でのグループ面接のなかで「トリ」を授かる場面がありました。面接会場である応接室に、5人の学生が入室しました。その順番に対応して面接官から質問を受けます。その中でわたしは5人目。入室と同時に、(これは何かやらかさなければ)という余計なプレッシャーを感じました。結論としては、志望動機とアピールポイントなどを聞かれ、結局緊張に負けてしまい無難に場を乗り切ったわけですが、その時はかなりの脱力感を味わいながら応接室の扉に向かったことを覚えています。(せっかくトリをもらったのに期待に応えられなかった・・・)と。

 でも、奇跡は起こりました。

入室のときと同じ順番に応接室から退室するので、わたしはいちばん最後に応接室を後にします。面接官の質問に無難に答えられたという安堵よりも、何もやらかすことができなかった脱力感のほうが大きかったわたしは、ほぼ無心で退室の瞬間を迎えようとしていたはずです。その時、応接室の扉のすぐ横に照明のスイッチがありました。(あぁここに電気を消すヤツがあるな)と思ったのと同時に、そのスイッチをパチっと消してしまったのです。自分の部屋を出るときのように!その瞬間、応接室は真っ暗。後ろからは面接官たちの「おっ?!」という驚く声。いつものクセで、部屋を出る際にふつうに電気を消してしまったわけで。あわてて電気をつけなおし、「失礼いたしました~~」と応接室を後にしました。ふつうなら、かなり赤面ものの失敗談になるのですが、その帰り道、電車のなかでなんともいえない達成感(なんでやねん)を感じていたことを今でも鮮明に思い出します。

 その後2次面接まで進み、結果としては不採用だったのですが、次のステップへ進めたのでこの消灯事件はマイナスではなかったようです。

 

 多少極端な例ではありますが、こういう三段落ちの精神が生まれながらに根付いている大阪人こそ、三段論法の思考回路が身に付きやすいのではないかと閃いたわけです。「三段」という断層構造に強いのです、きっと。

 

 大阪人は笑いに厳しい→「3人目」に当たると自然にオチを用意する→オチのない話は嫌われる

という推認。。。